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冬越えのなりわい| REPORT vol.14-2

〜私たちは先人に何を見て、どう受け止めたか〜


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「郡上の冬越えの祈り・馳走・暮らし」REPORT vol.14-1

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「冬越えの暮らしをうたう」REPORT vol.14-3


お腹がいっぱいになったところでトークセッションに移ります。4つのテーマ、5名の上り人に登壇いただきました。以下、対談形式でお届けいたします。


◉下駄づくりと寒ざらし


「郡上木履」の諸橋さんをお迎えしました。



諸橋:下駄の販売は基本的に4月から9月までなので、よく冬はなにしてるの?と聞かれます。冬はひたすら下駄の土台を作っています。


元々は郡上は下駄の産地で年間4万足くらい作ってたんですが、地元で作られなくなっていました。そこで、6年前から地元のヒノキを使った下駄の制作を始めました。


井上:木材として使われる木は、冬に切られるんですね。


諸橋:冬に伐採されて、乾燥が始まるんです。木の板1cmを自然に乾燥させるに1年かかると言われています。僕が使っているのは5cmの板材なので、結構かかります。


部材は100足単位でつくります。それを5日間で作るので、1日あたりだと20足。年間で4000足あればいいですが、夏は出来るだけお店にこもりたいので、お店を開けてない冬の時期に削っています。


井上:郡上でものづくりをする上で参考にされている働き方があると聞きました。


諸橋:「渡辺染物店」さんです。ここは藍染と、鯉のぼりの染色に使っている「カチン染め」をされています。両者は全く技法が違うのですが、それら両方を合わせて“郡上本染”として営んでおられます。



藍染は気温が高くないと発酵しないので、夏にしかできない。冬はできないので、節句に向けて鯉のぼりを作るんです。その工程の一つである「寒ざらし」というのが有名です。




井上:いつもは雪があるんですけど、今年は全くない珍しい寒ざらしでしたね。


諸橋:そうでしたね。ちなみに僕は、郡上本染の後援会にも入っていて、4年前からこの「寒ざらし」の作業も一緒にさせてもらっています。


鯉のぼりを川につけることで生地が引き締まり、色彩が鮮やかになります。メインの作業は、おたまを使って生地につけられたのりを剥がし、白い模様を出すということ。郡上八幡の冬の風物詩にもなっていて、観光の方もたくさんきています。


井上:鯉のぼりをつくることで1年中染めに関わる仕事をしていると。


諸橋:そう、それがとても郡上八幡らしいものづくりのカタチというか。綺麗な川や気温といったものが整わないとできない“自然と寄り添った仕事”だと思っていて、「郡上木履」もそういうのを目指しています。


井上:他に冬にしていることは?


諸橋:鼻緒の準備もしています。「こぎん刺し」という元々は青森の技法を使った鼻緒があって、これは雪深い石徹白で冬の仕事としてやってもらっています。


井上:雪で閉ざされるだけに冬の仕事が生まれ、業が発達し、夏の商品になるという、理想的な循環がなされているわけですね。


話題は、冬の下駄事情へと進みます。


井上:みなさん、郡上八幡の大晦日の夜って、除夜の鐘や初詣に行くの人たちの下駄の音が夜中ずっとしてます。子どもが寝れないんですよ。


諸橋:郡上おどりって冬の唄は少ないんですけど、この事は歌詞の中にも残されてあります。


井上:唄いましょうか。♪雪の中降る夜は来ないでおくれ、隠しきれない下駄の後



踊り下駄は踊りの季節だけのものじゃなく、冬にも使われることがあるのです!下駄づくり職人の冬の仕事の紹介でした。ぜひ、下駄を買いに、郡上おどりにきて欲しいと思います。ありがとうございました!



◉米づくりと発酵食


今回のご馳走であるにしんずしや肉漬け、おにぎりなどをつくってくださった田中夫妻にご登壇いただきます。



井上:石徹白の集落には、年越しを祝う神事が受け継がれています。年明けの1日、2日、3ヶ日、5ヶ日、7日は七草粥、14日はお日待神事とあります。これは太陽が上るのを待つ神事です。そして、15日はオハシラ粥。これは?


田中佳:正月についた鏡餅を小さく切って、お粥と一緒に炊いたものを神様やご先祖様にお供えするんです。


井上:17日と23日にお月待ち神事をやって、2月3日の節分で一通り終えると。


田中佳:そうですね。この期間に神事が集中しているんです。毎日お供え物を作り、神頼みをする。それほどに、冬を越えるというのは厳しいものだったのでしょう。



井上:正月神事の主役は、お米なんですね。なぜ米が主役に?


田中佳:厳密にはそれを粉にした米粉ですね。石徹白ではお米自体が貴重だったんですね。ただでさえ手に入らない米を、一年で一番厳しい時に神様に供えることで「来年もどうかいい恵みを頂けますように」と、願掛けをされていたみたいです。


井上:昔は水利が悪くて米ができず、できた数少ないお米は神様のもので、庶民は雑穀を食べていたんですよね。そんな石徹白で、宏尚さんはお米作りを?なぜ米づくりをやろうと思ったんですか?


田中宏:去年、石徹白に移住してきて百姓をしています。お米は僕らの主食というか、当たり前の食材ですね。だからこそ、生活の一部としてそれを育てたいと思ったんです。神事に使われていたというような文化的なことは、移住してきてから知りました。


地元の人には、「お米は難しい」とか「取れんぞ。大丈夫か?」と言われたりするのですが、今では圃場整備もされ、水路も引かれていて、お米が作れる条件も整ってきています。何よりお米が好きだということもあって、お米を作ることにこだわっていたいんです。


井上:今となってはお米は「作れる」けどそれだけでは「食えん」と、地元の人に思われているんですね。なおかつ、農薬や肥料を使わずにお米を作ってらっしゃると。


田中宏:はい、世間一般でいう自然栽培で。その土地にあるものをちゃんと循環させる形で土と向き合えば、余分なものは入れなくても育つんじゃないかということで取り組ませていただいてます。


井上:今日はそうやって育てられたお米で仕込んだ、にしんずしやおむすびをいただいたんですよね。



米作りをするって普通すぎて、いわゆるブランディングとかの対象になりにくい中で「石徹白で米を作る」と選択されてるのが宏尚さんの魅力というか。


普段こんなふうに自分のやってることを喋る人ではないんですけど、心の中でずっと思っていて、それを貫かれようとしているのが、もしかしたらこれからの郡上の“本文”というか、郡上で暮らす中での精神的な柱になっていくんじゃないかと思うんですね。お正月に毎日のようにお米を使って神事をしていたかつての文化につながっていく暮らしを送られるんじゃないかって、期待しています。


◉狩猟とジビエ

猪鹿庁から、安田さんと松川さんに登壇していただきました。


松川:こんにちは。白鳥町からきた松川哲也と言います。365日のうち360日は山の中を歩いています。今回は東京に3日間滞在してますが、狩猟を始めてからこんなに山に行かないのは初めてです。


井上:大丈夫ですか。


松川さん:不安です(笑)感覚が(鈍らないか)。


安田:大和町からきた安田です。僕は100日くらいですね、せいぜい。それもちょっと多く見積もってるかもしれません(笑)


井上:“半猟師”?いろんな仕事を組み合わせながら暮らしておられますね。


安田:そうですね。狩りも一つの生業ですけど、狩りやジビエの魅力を知ってもらうことも仕事なので、お客さんが喜んでくれるイベントの企画運営もしています。


井上:先ほどいただいた、鹿や熊を獲ってきてくださったんですよね。猟師は自分が獲った肉は自分だけで食わない?というか、他の人に分け与えるってのは本当ですか?


松川:確かにそうで、自分で獲ったとしても自分だけではとても食べきれないので、食べていただける人に渡しています。


井上:何万年も前に狩猟文化がありましたけど、その頃から獲ってきた獣は捌いて集落の人々すべてに配ると。これは、生き延びるための共同体による相互扶助とも言えますね。そんな時代を経て僕たちの時代は、お金さえあれば、飢えることもない。肉も普通に買えるようになった。そんな世の中でも、お二人のようにあるものを“他者とシェアする”感覚って、どうして生まれているのでしょうね?実はここはとても大事なことのような気がします。



熊打ちの話も聞いて見ましょう。




松川:師匠たちと冬眠している熊を探しに行きました。探すといっても広大な山なんで、半日かかってようやく穴にたどり着くような。途中で迷って見つけられない時もありますし、たどり着いたとしてもいつもいるわけじゃないので、今回も「どうせいないだろう」と思っていた節はありましたね(笑)


井上:木を叩いて、中にいる熊を起こすんでしたよね。


松川:コーン、コーンって叩いたら、まさかの「ガリッ」という音が。まさかいないだろうと思ってみんな銃は脇に抱えていて、僕だけが一応銃を構えている状況でした。


仲間は(木に登って)熊が出てくる穴から1m以内で叩いています。熊が穴の高さまで上りきらないうちに撃ってしまうと木に戻ってしまうので「まだ打つな」と言われていて、気持ちの中では「やばいやばいやばいやばいぞ」と思いながら待って、こめかみを狙いました。打ったら幸い脳みそに当たって。





井上:これ、当たらなかったらどうなってたんですか?


松川:中枢神経を一発で撃ち抜かないと確実に反撃を受けてますね。鹿でさえ心臓に打たれても100mも走れちゃうんです。熊にその猶予を与えると、かなり危険ですね。実際この時は、仲間のところまでわずか50cmのところに来た時に撃っています。


井上:それをみんなで山から引き下げてきたと。こんな1日の出来事だったんですね。

今回、この熊はどのように調理を?


松川:シンプルに白だしに醤油の味付けにしました。山から帰ってきてそのまま作れる鍋というか、“猟師猟師小屋の賄い食”ですね。


井上:ご馳走様でした。


安田さんは食べる以外の活動もされていますね。



安田:獣を獲ったらお肉はもちろんですが、毛皮、骨、角をくまなく使いたいと思っています。現代はこれらのほぼ99%が捨てられています。ちなみに、肉でも9割くらい捨てられているんです。いかに、利活用されていないかが分かるかと。


冬越えの貴重な知恵というと、毛皮という素材を活用することでしょうか。毛皮って、ただ暖かいだけじゃない。暖かいし、蒸れない。あと、擦れても音がしないので、獲物に近づくときのウェアとしても優れています。今、先輩から毛皮のなめしのやり方を教わっています。


井上:皮は揉み込んで柔らかくするんですよね。


安田:そうですね。自分の手で触って、揉んでいくので、皮は特に愛着とか、(命をいただいているという)祈りの感覚が強いというのを実感しています。


先輩たちにはものすごい知識も経験もあるんですけど、それが明文化されていないことが多くて、引き継ぎたくても引き継げない状態。獲ったものを無駄なく使っていたという昔の人の考えを僕らも引き継ぎたいと思っているので、今一生懸命教えてもらっています。




井上:狩りというものは本来“動物を殺して食べる”という広がりだけでは捉えきれない行為なはずですが、僕たちにはそこだけしか見えていないのではないかというのが今の話で伝わってきますね。


“動物を切る”というのが僕らは体感としてはない。その掛け替えのなさって、知らないと思うんです。

でも、そうやって熊や鹿と向き合っていこうとしてる猟師が郡上では少しずつ増えているんですね。現代ならではの獣害問題とかがある中で、いかに動物と向き合っていくかということを日々、模索されています。そんな彼らを代表して、2人にきていただきました。ありがとうございました。



漁労と竹細工

郡上魚籠の職人、増田庚矢さんにご登壇いただきました。



井上:今日提供いただいた鮎はどんな鮎ですか?


益田:郡上の白鳥町で捕れたものです。卵を持っていない、一番美味しい時期の鮎を開いて出しました。


井上:美味しい時期。春の魚と、夏の魚と、同じ鮎でも味が違うとかいうことって、子どもの時から知ってるんですか?


益田:感覚で覚えてましたね。でも僕、魚嫌いなので食べられないんです(笑)


井上:食べられないのに釣りばっかりやってるんですよ!笑 今回は「ていな」という網をかけて捕ってくれたんですよね。


益田:鮎の群れを追いかけて、逃げる方向に石を投げて、群がおりてきたタイミングで「ていな」を投げるんです。こうやって網に追い込むのを繰り返します。


井上:今回60匹釣ったと聞いてますけど、どれくらいかかりましたか?


益田:別で仕事をやりながらなので、一週間かかったかかからないかでした。


井上:今回はそれを太陽で干す一夜干しにしてくださいました。



井上:さて、庚矢くんは現在若干25歳です。郡上魚籠をつくり始めたのは14歳。きっかけは何だったんですか?


益田:自分の魚籠が欲しかったんですけど、お店に行ったら高くて自分の持っていたお金では買えなかった。じゃあ、つくっちゃえって。


井上:見よう見真似?


益田:近所に師匠がいることを教えてもらって「教えてくれ」って転がり込んだんです。けど、「お前にはできん」と言われました。そのあとおじいが頼みにいってくれて「じゃあ春からこいよ」と。


井上:春からというのは、冬の間に竹を伐採するから?


益田:そうですね。11月から2、3月までには1年分の竹を取りにいきます。


井上:14歳で郷戸師匠の弟子になって10年間教えを受けて。郷戸さんが亡くなって、今では郡上唯一の魚籠職人。日本でも2人だけ。彼が初弟子なので、60歳の人が弟弟子になります。ここの部分だけを聞いてもすごいですよね、彼のやってることの貴重さが表れています。


郡上では、アマゴとか鮎とかを釣ってそれを店に卸す“職業漁師”と呼ばれる人たちがいます。釣りが生業になる。郡上魚籠はその職業漁師にしか売らないんですよね。


益田:昔はそうやったんですけど、今は全国的に注文が増えているのでなるべく出すようにしています。花かごとして使われるというのも増えているみたいです。魚籠を作ってる身としては、なるべく魚を入れる道具として使って欲しいという想いがあるんですけど。笑


井上:あまりの竹細工の美しさに、魚籠が工藝や民藝として価値が見直されているんですね。

年間どれくらい作るんですか?


益田:去年は結構作れましたけど、それでも年間20個行けばいいくらいですね。


井上:郷戸さんとはどんなやり取りを?



益田:ボケてからも、死ぬ間際までずっと、売る前には見てもらいに持っていってました。「もう持ってくるな」と言われてましたけど、それでもずっとチェックしてもらっていました。


井上:そして師匠がお亡くなりになって、独り立ちを。


益田:師匠が死んで、師匠の名前を広めたいという想いがあります。

いろんな人と出会って、形的にも、性能的にもどんどん伸びてきました。


井上:郡上魚籠を作りながら、川では釣りをして遊んでいる。そんな暮らしはおじいさんに影響されていると。



益田:夏は鮎を釣って、天然おとりを売って、“夜ヅキ”や“ていな”といったいろんな方法で魚を捕ってますね。最初に釣りを教えてくれたのはお父さんでしたが、こういった郡上の釣り方を教えてくれたのはおじいでした。


井上:郡上でもなかなか見ないですよ、網を投げとる男は(笑)。それくらい変わってるんだけど、ピュアなんだよね。やっぱ、網で捕る喜びってあるの?


益田:ありますよ!!鮎は群れ鮎を捕るんですね。群れた鮎をバーっ!と捕るときの高揚感。群れが大きければ大きいほどドキドキして、足震えるわ!って。待ってる時間もずっとぼけっと川見てられるし。


井上:唯一の郡上魚籠職人をしながら、川でずっと遊んでるっていう若干25歳の彼の生き方、どうですかみなさん!ワクワクするというか。郡上らしいの生き方の一つをこの年齢にして実践してるということは、おそらく師匠や彼のおじいの“本流”が彼に注がれてきたのだと僕には思えるんです。


そんな郡上の若者を紹介したくてお呼びしました。ありがとうございました!


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「郡上の冬越えの祈り・馳走・暮らし」REPORT vol.14-1

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